明體(明朝體、宋體)與基督教
摘自日文版Wikipedia (thanks gugod for pointing this out),原文是很長的一段:
清朝が弱体化し、ヨーロッパ諸国が中国に進出するようになると、まず中国への興味から、その風習などと共に奇妙な文字が紹介された。中国進出を誇示する目的もあって、ナポレオン1世とパルマ公によってそれぞれ作られた『主の祈り』という本に使われた活字はフランス王立印刷所やジャンバティスタ・ボドニの印刷所などヨーロッパの印刷所で彫られたものである。その後中国の研究が始まり、中国語の辞典や文法書などの印刷のために漢字活字の開発が必要とされた。また、ヨーロッパの進出とともにキリスト教禁制が無実になっていくと、宣教師がやってきて、教化のための翻訳を始めた。そのとき、東アジアにあった製版技術を利用しないで、金属活字の技術を持ち込んで使った。そして、どちらも、漢字を活字にするにあたって、明朝体を選択したのである。これは欧文の印刷で普通だったローマン体(漢字活字の開発は主に英仏米の勢力が中心であった)とテイストが合っていたためだとか普通だったからだとかいわれる。宣教の場面では、活字はヨーロッパで使われていたものを使用したり、現地で使用するのに一々木などに活字に掘り込んだりして作った。ヨーロッパで使用されていたもので、初めてまとまった量が作られたのは1715-42年のフランス王立印刷所の木活字で、ルイ14世の命になった。この活字はのち、ナポレオン1世の中国語辞書編纂のために拡充された。その後ジャン=ピエール・アベル・レミュザ (Jean-Pierre Abel Remusat) の『漢文啓蒙』で使われた活字は、鋳造活字であった。木活字も鋳造活字もともに明朝体であった。19世紀中葉王立印刷所のマルスラン・ルグラン (Marcellin Legrand) は中国の古典の印刷の用に活字制作を依頼され、分合活字を制作した。ルグランの分合活字では、偏旁冠脚をそれぞれ分割して、より少ない活字製作で多くをまかなおうとしたもので、これも明朝体であった。
大意如下(我有些地方沒看得很懂,可能有錯):
清朝衰落後,歐洲勢力進入中國,一方面是為了介紹中國風俗文字,同時也有展示勢力進入中國的意味,因此拿破崙一世與Parma公爵(?)印製了(中文版的)《主禱文》,所使用的活字是在歐洲的印刷廠所刻製的。
之後為了研究中國,需要開發印製中文辭典與文法書所需要的活字。在歐洲勢力進入,基督教傳教的禁制消解後,傳教士來華,為了傳教而進行翻譯事業。此時印刷所用的,不是東亞的製版技術,而是(西方開發的)金屬活字。倒是,不管是哪一方(東亞的製版技術還是西方的金屬活字),所使用的都是明體。這是為了能與一般用於印刷歐文的羅馬體契合所致──蓋漢字活字開發的中心勢力,以英、法、美三國為主 〔我劃的底線〕。
在宣教場合,除了在歐洲所使用的活字,也有為了當地使用需要,而由木頭一個個刻成的活字。歐洲頭一批使用的活字,是由路易十四令法蘭西皇家印刷廠於1715-1742年所刻的木製活字。在這一批活字之後,拿破崙一世為了編纂中文辭典,而又再得到擴充。在此之後,尚─皮耶.亞伯.雷姆薩(Jean-Pierre Abel Remusat)印製《漢文啟蒙》所用的活字,就已是鑄造活字了。不管是木刻活字,還是鑄造活字,都是明體。19世紀中葉,皇家印刷廠的馬謝朗.勒鞏(Marcellin Legrand)受託製造印製中國古籍所需的活字,他製造的是分合活字(?)。勒鞏的分合活字,將字的偏旁部首做切割,以少量活字(字模?)組成多數的活字(?),這種活字也是使用明體。
lukhnos :: Oct.17.2006 :: tekhnologia 技術或者藝術 :: 1 Comment »
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